イメトレ、自己啓発、エンターテインメントからギャンブルまで。


by takaichiarata
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書籍カースト制度

 自室の本棚から本があふれ出して、猫たちが走り回るたびに本が崩れ落ちるので、久しぶりに本棚の整理をした。
 私の本棚は、高さ2メートル数十センチ、幅1メートルを越す、まあ、なかなか大型の書棚で、奥行きもたっぷりとあるので、2列3列に本を整頓ことができる。全部のスペースをすき間なく使うと、ハードカバーの本でも5〜600冊近くの本が収まるのではないだろうか?数えたことないから分からないけど。
 その本棚に、文庫・新書・ハードカバー・辞書・辞典類・大判の画集・写真集などが、無秩序に収納されていて、それでも入りきらず、本棚のすき間やかなりのスペースを取った床の上に、積み重ねられている状態になっていた。それは、もう、乱雑の極みなのである。その乱雑さの中で、私は、生きているのである。

 で、あまりにも無秩序状態の部屋に、いまさらながら気付き、私は本棚の整理を決心したのですね。
 実は、私は、定期的に本棚を整理し、必要な本、残しておきたい本、もうちょっと手元に置いておこうかな本、必要ないから処理するべし本…と、ランク付けをして、悲しくも不必要の烙印を押された本たちは、古本屋行きになってしまうという、本にとってみれば理不尽極まりない「書籍カースト制度」の実践的信奉者なのであり、そのような書籍カースト制度の実施は、本日のように、突発的に宣言されるので、私の手元にある本たちは、一瞬の油断も見せられないのである。

 しかし、油断しなくても、ランク格下げ、もしくは、ランク格上げの時は、確実にやってくるのであった。脚立を使い(最上段の棚は脚立がなければ届かない)一冊一冊背表紙を見たり、手に取ったりしながら吟味する私は、さしずめ、金貸しシャイロックの心境である。
 そうやって、午前の数時間をかけ、私は新たなるカーストを決定するのであった。
 そして、最下層のカーストに転落した悲しみの書籍たちの数は、50冊ほどを数えることとなったのである。今回は、いつもに比べて少ない方ではあるが、それにしても毎回本の整理をするたびに、数十冊から百冊を越える本を処分しなければならないのも、日本社会の住宅事情的諸問題をはらんでいるようで、いきなり政治意識に目覚めちゃったりするわけであるが、当面、というか、いまのところその問題は横に置いておくべきことであって、問題は、この最下層カーストに落ちてしまった本たちの処遇についてであった。

 わが家の近所に、新古書店がある。「♪〜本を売るならブック○フ〜♪」というコマーシャルで有名なチェーン店ではなく、もうちょっとマイナーではあるが、一応大型の古書店である。
 私は、そこをよく利用するのであるが、今回も私からもう不要だもんねという勝手な烙印を押された書籍のみなさまがたには、そこで第二のジンセイ(じゃなくて、ホンセイ)を送ってもらおうと思うのである。
 そして、行ってまいりました。
 合計金額3550円を私はいただき、彼らとお別れをしたのでありました。

 それにしても、本というのは、売るときには悲しくなるぐらい安く買いたたかれてしまうものである。今日売った本の中には、もう、新刊書の書店では手に入らないような貴重な絶版本も含まれていたのであるが、買い手である新古書店にとってみれば、それが貴重かどうかは関係なく、流れ作業的に値段を決定されてしまうので、売り手である私としては、なんだか割りきれない思いも多少はなくはない。
 しかし、私はこういう古書店で、意外な掘り出し物をものすごく安く手に入れてホクホクすることだって、たびたびあるので、まあ、売る時の悲哀と掘り出しものを買う時の喜びと、差し引きゼロ、ということで、ひとつヨロシク、なのであった。

 で、今日も広い店内を見て歩き、思わぬ掘り出し物を見つけてしまったのである。
 それは、1973年発行の講談社現代新書・金子史郎著「アトランティス大陸の謎」という本である。
 この本、欲しかったんだなあ。

 古代ギリシャの哲学者プラトンが晩年に書いた「ティマイオス」という本の中に、滅亡したアトランティス王国のことを、回想風に述べているのだが、アトランティスが果たして本当に存在したのか、もしそれが存在したとしたらどこにあったのか、ということは、未だに謎のままなのである。
 考古学好きの私としては、是非ともこの謎に正々堂々と立ち向かいたいのであるが、如何せん、アトランティスに触れる書物の多くは、いかがわしい嘘とでっち上げとオカルトものが多く、地政学的地形学的及び考古学的アプローチから正面切って挑んだものが、ほとんど見当たらないのである。
 私が手に入れた「アトランティス大陸の謎」は、著者の専門である地質学からアプローチした、きわめて真面目な学術論文なのである。

 アトランティスそのものが、プラトンの作り話だという可能性は、もちろん高い(と、学術的には言われている)。だが、近年、トロイを発掘したシュリーマンがアトランティス発見の鍵となるあるものを所有していた、というはなしがひそかに伝わっているというのである(もちろんこれも真偽の程は不明)。
 なにしろシュリーマンときたら、単なる伝説だと思われていたトロイの遺跡を、本当に発見して世間(と歴史学者)をあっと言わせてしまったオトコなのであるから、シュリーマンという名前とアトランティスという名称が結びついてしまったのなら、これはもう、タダナラヌ気配に充ち満ちてしまっているのだ。

 そういうわけで、私は、かねてより欲しかった(すでに絶版になっている)「アトランティス大陸の謎」を250円なりという格安で手に入れ、ついでに、情報工学の専門書とマーケティングの本と子供向け伝記シリーズ「マルコ・ポーロ」昭和56年ぎょうせい社出版、を格安お値段で買い、ほくほく顔で帰宅したのであった。

 そうそう。
 最近、私は、ネットオークション(ヤフーね)にもはまっているのだ(購入専門ね。出品するのは、画像を撮ったり説明文を書いたりの手間が面倒くさいから、やらないだろうなあ)。そこで、何冊かの貴重本(絶版本を含む)を、手ごろな値段で手に入れてしまったりしていて、私の本棚における書籍カースト制度は、今後もその争いがますます熾烈なものになっていくであろうことは、明らかになる今日この頃なのであった。
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by takaichiarata | 2005-02-25 23:48 | コラム
 人生の「真」の幸福は、どのようにして手に入れたらいいのだろうか?
 この命題に対し、いままで多くの(本当に多くの)人々が、それぞれの立場から興味深い考察をしてきた。

 アドラーは、「人生の幸福は権力の追求によって得られる」と考えた。
 フロイトは、「人生の幸福は快楽によって達成できる」と考えた。
 V.E.フランクルは、「幸福の定義は達成感である」と考えた。

 たぶん、この3人の言葉は、真理の一面をついたものだと思う。
 しかし、私個人の考え方を言えば、フランクルの思想が一番しっくりくる。誰もが、よく考えてみれば、そのとおりだと同意するだろう。何もしないで幸福になれると考えるオメデタイ人は、そう沢山いるもんじゃない。時にはいるかもしれないけど、大多数の人は、何かを目指し、そこに到達しようと人生にアクションを起こす過程で、「幸福」というものは生み出されていくと、考えているはずだ。
 そして、この考え方は、正しい。

 アクションには、結果が伴う。その結果が好ましいものであっても、あるいは、そうではなくても、その個人が人生になんらかの目的も持ち、その目的に向かって生きようとすることが大事なのであって、こういう人生の大切さを知っている人は、結果がどのようなものになろうとも、必ずその達成感によって、人生に幸福を感じるのである。

 だが、人生にアクションを起こすことの大切さを分かっていながら、どうしてもそれをできない種類の人々がいることも確かだ。その原因の大部分は、たぶん、目標がないことにあるのだと思う。明確な目標がなければアクションの起こしようがない。そこに立ち向かう楽しみも、その目標を達成する喜びも感じることはできない。自分の可能性を発見することもできないし、自分の価値を自分で信じることさえ難しくなる。

 フランシス・ベーコンの言葉に、こんなものがある。
 「人の運命を形成する鋳型は、主としてその人自身の中にある」

 現実の自分が、ひょっとしたらなれたかもしれない自分のことを考えて、悲しい微笑みを浮かべることのないよう、どんなことにも断固として最善を尽くす生き方は、やっぱり美しいものだと思うのである。
 
*ここからちょっと宣伝っぽくなってしまうが…

 今週からスタートしたピックアップ・ドリル【お金篇】。この講座の目的は「人生にもっとお金を。もっと豊かさを。もっと幸福を」というものであるが、底流にあるのは、上記で記した「幸福の定義は達成感である」という思想なのである。人生に経済的豊かさをもたらす体質作りと目的作り、そして、それを現実化させるためのアクション力と実際的な発想力が、この講座で自然に身に付けることができるはずだ。いや、自信を持って言い切ってしまうが、身に付けることができるばかりでなく、実際に望ましい経済力を(しかも、幸福感を伴った)持てるようになるだろう。
 なにしろ、このピックアップ・ドリル【お金篇】は、フランシス・ベーコンとV.E.フランクルの思想を下味にしたスープの中で、タカイチアラタの実践イメージトレーニングという具材を煮込み、仕上げに企画のプロが実践しているひらめきの発想法をまぶした、実に豪華なメソッドなのだからね(笑)。
 すでに、予想以上の方々に、受講していただいている。第1週目の配信が今日終わったばかりであるが、まだまだこれから、本格的な「航海」ははじまるのである。期待していてください(と、受講生の方々へのこれはメッセージです^^)。
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by takaichiarata | 2005-02-19 01:18 | 自己啓発

鎮痛剤1回2錠

 歯が痛い。
 ずきんずきん、ところによりどっかんどっかんと、神経を刺激する痛みがくる。
 仕方がないので、医療法人社団東慶会多賀歯科医院という、なんだか全面的に、ニッポン全国良い歯を作りましょう、我々がそのお手伝いをしましょう的な名前の歯医者さんに行くことにした。
 名前はイカメシイが、この歯医者さんは大変繁盛していて、その繁盛ぶりに似合った丁寧な治療をすることで(たぶん)有名な歯科医院であって、私としてはとにかく、痛くしないで治療していただけるのなら、もうなんだってしちゃうからね、でも少しでも痛いのなら泣かせていただきますわあなた、と、なんだかこのあたりの表現が演歌的な幼稚さを露呈しているようで、我ながらどうもなあと首をひねってしまうのでありますが、いいのである。
 問題は、演歌をこよなく愛するニッポンのお父さんではなく、緊急かつ徹底的な私の歯の痛みについてなのである。
 はやいはなしが(遅くても同じだけど)私は歯の痛みに耐えかねて歯医者に行った、ということを言いたいわけでありますね。

 あらかじめ電話で予約を入れておいたので、そこのよいこのみなさーん、歯を治療するのは怖くないのよ、さあ、おとなしくクマのプーさんでもみていましょう、という深慮遠望があるのかどうかしらないが、受付の前に並んだゆったりめのサイコロ型の椅子が場違いな待合室には、子ども向けのアニメが流れるモニターが壁にはめ込まれていて、私は受付を済ませると、椅子のひとつに腰掛け、頬に手を寄せながらぼんやりとクマのプーさんが蜂蜜を舐めているアニメを観るのであった。
 しかし、頬に手を寄せると言っても、世の中にはいろんな種類の頬に手を寄せるものがあるものである。

 私が頬に手を寄せているのは、単純に歯が痛いだけなのだが、例えばこんなことだってあるはずなのだ。
 夕方もほど近い午後4時過ぎ、人妻やよいは近所のスーパーの鮮魚売り場で頬に手を寄せ、目の前のショーケースに並ぶパックづめのさばの切身120グラム163円を眺めながら、今夜のおかずについて思い悩む…こういうのも頬に手を寄せるに値する正しい状況であろう。
 あるいは、…いやいや、えーとえーと、私は何を書きたかったのかというと、頬に手を寄せることについての民族学的考察ではなく、目下の懸案事項であるところの、私の歯の痛みとその治療についてであった。

 とにかく、と、なんども同じ言葉を使ってしまうことに鈍感な俺であるが(もう私などと言ってられない状況なので主語が変わるのである)、とにかくですね、俺は5分ほどクマのプーさんを見ていたわけなのですね。そして、呼ばれました。
 治療室に入り、例の治療椅子に座る。
 まだ20代とおぼしき女性の看護師さんが(歯医者でも看護師と呼ばれるのか知らないけど)まずは私の口を覗き込み、ふむふむと頷く。どうでもいいけど、ここの医院では、看護師さんのユニフォーム(制服)の色は薄いピンク色であって、私は必然的に看護師さんのピンク色の制服がちらちらと脳裏にまたたき(目を閉じているからね)治療前の検査でも相変わらず歯はずきんずきんと痛んでおり、気をまぎらわすためにもなにか建設的なことを考えようとしたのだが、私が考えることといえば、「白衣の天使」という言葉はあるが、これが「ピンクの天使」となると、随分意味が違ってきちゃっていったいどうなんだろうか、ピンクの天使はやっぱりお医者さんやその関係者を表す表現としてはマズイよなあ、これじゃまるで、深夜の歌舞伎町1番街のビルにこっそりとかかっている看板みたいだもんなあ、などと、どうでもいいことを延々と考え続けるばかりなのであった。

 俺、つまり私は、その後壮絶な治療を行ったのであるが、その模様を逐一報告していたらまたまた激痛が起きそうなのでこのくらいにしておく。 いま、歯科医院で渡された強力鎮痛剤1回2錠なりを飲んだ。強力鎮痛剤ともてはやされるだけあって(誰にもてはやされているのかしらないけど)とにかくそれは、強力うなのである。おかげで、私は、こうやってシリメツレツな文章を書くこととなった次第であります。
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by takaichiarata | 2005-02-15 17:36

ハスラー

 「お前は、負け犬だ」
 「俺が? 何を言ってやがる。俺ほど技術と才能を持っているヤツはいないぜ」
 「分かってないな」
 「何を分かってないというんだ」
 「勝負は、技術と才能で決まるんじゃない」
 「ハ! 技術と才能以外に、何があるっていうんだ。分かってないのは、あんたさ」
 「いいかい、ボウヤ。お前はミネソタ・ファッツには絶対勝てない。何故なら、お前にはないものがファッツにはあるからだ」
 「俺にはないもの? ああ、確かにファッツは、俺にはないものを持っているな。おいぼれだ、ってものをな」
 「よく聞け、ボウヤ。お前になくてミネソタ・ファッツにあるもの、それはな、人間性だ。彼は決して最後まで勝負を諦めない。お前のように、勝負の途中で、負けることに対する理由を考えたりしない。お前は、勝負も終わってないのに、もう、負けた時の理由を探している」
 「俺が? 負ける理由を探している?」
 「そうだ。お前は、負ける理由をいつでも探しているんだ。だからこそ、お前は負け犬だと言うんだ」

 うーむ。なかなか味わい深い会話ですなあ。
 この会話、1961年のアメリカ映画「ハスラー(主演:ポール・ニューマン)」の一場面である。(会話の意訳は私がやっているので完璧に正しい翻訳ではありません)

 ポール・ニューマン演じる、若き天才ハスラー(ビリヤード・プレイヤー)エディが、年老いたベテラン・ハスラー「ミネソタ・ファッツ」と、賭け試合をするのである。上記の会話は、その立会人である地元のギャングの親分とエディの会話だ。

 実は、私は、この映画、はじめて観たのである。ポール・ニューマンは好きな俳優で、出演作品はかなり観ているし、好きな映画も沢山あるのだが(「明日に向かって撃て!」だとか「スティング」だとか「動く標的」だとか「スラップショット」だとかね)、「ハスラー」はタイミングが合わず、いままで観ていなかった(でも、25年後に作られた「ハスラー2」は観ていた^^)。それが、先頃、スカパーで深夜やっていたのである。

 で、やっと観ることができましたよ。
 いやあ、面白い映画であった。
 それ以上に、映画のあちこちに散りばめられたシャレた会話が、楽しかった。
 で、上記の会話、これ、ギャンブルや勝負事以外にも、いくらでも応用できそうでな言葉ですな(笑)

 「負け犬」も「勝ち犬」も、結局は、ほんのちょっとした違いの差なのである。
 そういえば、「負け犬のなんとか」なんていう本も売れているようだが、ここで言う(ハスラーで語られている)「負け犬」とは、言葉の定義とか概念が違うんじゃないのかな? 読んでないからよく分からないけど。

 とにかく、負け犬でも勝ち犬でもいいから、自分の人生を自分で作り出そうとしている人は、みんなエライのである、と思う、今日この頃なのであった。


 2月14日からはじめるピックアップ・ドリル【お金篇】、とても多くの方に申込んでいただいている。いままでにないペースで、お申し込みを希望される方からのメールが届いている。
 言い方は悪いけど、この講座は「勝ち組(犬)」を作るためのもの。言い方は悪いけどね(^^)。
 今回、教材を作るにあたって、一番気をつけたのは、「絶対に抽象的で観念的なものにしない」ということである。
 つまり、観念的で抽象的な理屈や言い訳を徹底的にはぶき、徹頭徹尾「具体的で実際的」なトレーニングのみをプログラムした、のである。
 だから、受講してくださる方に、損はさせない自信があるし、そればかりか、本当に満足していただけるだろう、と思う。それを真面目に毎日実践すれば、必ず、自分の人生の中に、金銭的な豊かさと幸福が訪れるようになるだろう。勝ち組(犬)人生を送れるようになるだろう(^^)。

 私は、自信満々なのである(笑)。
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by takaichiarata | 2005-02-08 18:01 | 自己啓発
 「たまにはメシでも一緒に食いましょう」
 と、編集Fが猫なで声を出すものだから、神田神保町の同文館出版に行った。
 編集Fは、
 「まあまあ、ちょっとコーヒーでも飲みましょう」
 と、言って、私を編集部の打ち合わせテーブルの椅子に座らせ、おもむろに、
 「実は、ちょっとタカイチさんにご相談があるのですが…」
 と、切り出す。
 私は、出されたコーヒーを飲みながら、
 「原稿なら、まだ出来てませんぜ」
 と、自信満々にきっぱりと言い切った。
 「いやいや。そうではなくて」
 と、編集Fは、うすら笑いを浮かべる。
 「ご存じのとおり、私はいま、年間25冊の本を作っているのですがね」
 ご存じのとおり、と言われたって、私はちっともご存じではないので、応えようがない。確かに、編集Fは、毎月忙しい(フリをしている)ように見える。
 「えー、いま執筆していただいているある著者の本にですね、ちょっとばかりCDをつけようと考えているのです」
 だから、どうした?
 「で、その方は、まあ、簡単に言ってしまえば、制作のシロートなわけでして」
 それで、なにを言いたいのかね?
 「当然、CD用のシナリオも書けないわけでして」
 まさか?
 「タカイチさんといえば、いまじゃ、制作の現場からは遠ざかってるとはいえ、かつては、映像制作&CM制作のプロ!」
 ちょっと待たんかい…
 「ということで、えー、タカイチさんに、そのCDのシナリオを書いていただきたいわけでして。いかがでしょう?で、できれば、ついでといっちゃなんですが、録音当日に、現場のディレクションもしていただければ、そりゃ、もう、私としては、ウレシイ限りなのですが」
 うーむ。
 まさか、こんなはなしになるとは、思ってもみなかった。
 で、編集F、とどめとばかりに、こう言った。
 「まあまあ、詳しいはなしは、うなぎでも食べながらしましょうか」 
 そして私たちは、うなぎ屋に向かった。
 目の前に出された、上うな重2.100円也は、私の胃袋に多量の胃酸を放出させた。つまり、美味そうである、ということなのだが、とにかく私はニヤニヤ笑いの編集Fの目の前でそれをぺろりと平らげ、まんまと目論みに引っかかってしまったのであった。我ながら、自分の食い意地がカナシイものである。
 もちろん、その後、きっちりと、私が同文館出版から出す本の原稿の催促を受けたのは、トーゼンのはなしではある。

 帰り道、ふと思い立って、神田の古書店街を歩く。
 何軒かの古書店に寄り、古本独特の匂いをかぎながら本棚を見ていると、リルケの詩集に目が止まった。それは、かなり古びたハードカバーの本で、表紙全体を薄いトレーシングペーパーで保護してあった。
 そっとページをめくる。
 旧かなづかいの文字がそこには踊っている。
 へー、リルケって、こういう詩を書いていたんだ。…と、私は思う。なにしろ、リルケの詩を、いままでに一度も読んだことがなかったのである。私が多少なりとも読んだことのある詩人の本といえば、萩原朔太郎や中原中也、あるいは、ハイネやランボウ、ゲーテ…ぐらいなものである。
 それに、読んだことがあるとはいえ、それも17歳、18歳頃のはなしであり、以後、詩とは無縁の、即物的唯物的怒濤のジンセイを送ってきたので、どう甘く見積もっても、私は詩心があるとはいえないオトコなのであった。
 にもかかわらず、どうしてもリルケの詩集が気になった。
 一体この本、いつの時代に出版されたのだろう、と、背表紙をめくってみると、そこには、

 『昭和十三年 四月十二日 初版発行』

 と、記されている。
 ほほう。昭和13年発行の本かあ。
 私は一瞬、買おうかな、と、思ったのであった。

 ところが、である。値段を見て、私は唸った。なんと、7.500円もするのである。その時、私の財布には、旧5千円冊が一枚きりしか入っていなかった。

 うーむ。
 私はしばし考える。
 銀行からお金をおろして購入しようか…しかし、そうまでして欲しいとは思えないし…と、書棚を睨み付けながら、およそ46秒ほど考えた結果、私はその本を見なかったことにして、書店を後にしたのであった。

 北風が冷たい神田駿河台の通りを歩きながら、私は、ジンセイを思いながら、なんかの本で読んだ、こんな文章を思い出すのであった。

 
私は眠り夢を見る。
 生きることがよろこびだったらと。
 私は目覚め気づく。
 生きることは義務だと。
 私は働く。
 すると、ごらん、義務はよろこびだった。
 (インドのノーベル文学賞作家タゴールの著作より)

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by takaichiarata | 2005-02-01 21:05 | コラム