イメトレ、自己啓発、エンターテインメントからギャンブルまで。


by takaichiarata
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ゾーンのない日々

 人間は通常、その限界能力の2割から3割しか使ってないといわれている。肉体的な能力も精神的な能力も、どちらもそうらしい。それは、「働き過ぎ」で自らの肉体と精神が破壊されないよう、脳が自動的に能力に限界を設け、無意識に肉体と精神の働きがセーブされているのである。その機能は、脳の視床下部が司っているらしい。

 ところが、人間は、ある条件が満たされた時、通常の能力を超える力を発揮できることも、よく知られている。いわゆる「火事場のバカ力」というのも、その一例である。

 このような力の発揮できる状態を、「ゾーン」と呼ぶ。(「フロー」「ピーク・エクスペリエンス」という呼び方もあるが、全て、同じ意味)それは、何らかの理由で無意識に制御される脳の安全装置が解除された状態のことだ。スポーツ選手が極限状況下で驚異的な記録などを出すとき、この「ゾーン」に入っていることが多いという。あるいは、芸術家が寝食を忘れ、創作に没頭している状態や、宗教家が無我の境地で悟りを開く状態、もっと日常的に言えば、ビジネスの現場で通常では考えられないような閃きを得る時も、この「ゾーン」の状態に入っている。

 「ゾーン」突入時に現れる現象として、

1、時間感覚のずれ(周囲の状況をスローモーションに感じる)
2、距離感覚のずれ(客観的距離感覚がなくなり実際より距離を短く感じる)
3、自然や周囲との一体感、溶解感(いわゆる「自然に溶け込む」状態)
4、人生のフラッシュバック

 このような内的現象が特徴的に現れてくることが分かっている。もちろん、全ての現象が現れるのではなく、いくつか、または、単独で現れるのである。

 「ゾーン」状態を意図的に作り出すことができたら、スゴイだろうなあ…と、このはなしを(ある神経生理学の本を読んで)知ったとき考えたのであるが、よく考えてみると、この「ゾーン」というのは、私がイメトレを効果的に活用するコツの解説の中でよく言うところの「自我2」と同じことであることに、気がつくのであった。

 自我2が適切に働いているとき、

1、集中力の発揮(時間感覚がずれている)
2、空間認識力のずれ
3、周囲との一体感(宇宙との一体感)
4、イメージの飛躍、もしくは、インスピレーションの発揮

 このような感覚や現象が(たびたび)訪れることは、イメトレを継続・習慣している方なら、なんとなくでもお分かりいただけると思う。まあ、ここまで極端な体験でなくても、感覚的に日常の能力以上の状態になったりすることは、実感できるのではないだろうか?
 要は、自我2を適切に日常生活の中で働かせることで、常にいまいる以上の自分を、自ら作り出すことができるようになる、ということだ。

 うむ。
 こう書いてみると、すごいものであるなあと、思ったりするのである。
 なにがって、そりゃ、もちろん、イメトレのことね。

 私にしても、本の原稿を書いているときに、いや、昔コマーシャルを制作していたときにも、よくこういう状態を経験している。この自我2が適切に発揮されている状態(つまり、ゾーンに入っている状態)のときに作ったもの(書いたもの)は、後で見直すと、普段の自分からは考えられないようなものに仕上がっていたりする。これは、計算してできたものではないから、客観的にどうしてそういうものが作れたのか、不思議なぐらいだ。

 でもね、最近の私ときたら、原稿書きをサボっているから、トーゼン、ゾーンにも入らず、タダナラヌ怠惰なジンセイを送っちゃったりしているのである。困ったものだ。

 編集者のみなさま。そして、新しい本を待ち望んでくださっている読者のみなさま。ご迷惑をおかけして申し訳ない。来年は、毎日コツコツと、日々ゾーンに入れるよう、精進する所存でござりまする。m(__)m

 いやはやそれにしても、今年は(いや、今年も)反省すべきことが多い一年であったことである。光陰矢の如し、である。来年は、時を無駄にしないように、日々、楽しもうと思うのであった。

 みなさま、良いお年をお迎えください。
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by takaichiarata | 2004-12-30 18:22 | イメージトレーニング

偶然と必然

 いわずもがななことであるが、現代日本の社会は、資本主義社会である。

 資本主義社会において、何らかのものに自らが持っている「富(あるいはその象徴)」を投資し、それをさらに増やす行為は、「善」である。心情的に否定しようとも、これは、まぎれもない現実である。

 また、資本主義社会において重要なことは、機会は均等ではあるが、その結果は常に不平等である、ということだ。

 「機会均等」と「結果平等」は、資本主義社会においては、両立しない。少なくとも、社会は、常に「機会は均等」に与えられる制度を持っているべきであるが、その結果についてまで、社会は関知する必要はない。乱暴な言い方だが、これが、本来の資本主義社会であるのだと、私は思うのである。

 ここで大事なのは、機会を使用した結果には常に自己責任が伴う、ということだ。

 例えば、金持ちになりたい、と思う人がいるとしよう。
 この人は、金持ちになるために、自己資本を何らかのものに投入しそこから利潤を得ようとする。だが、常にその結果は、計算どおりにはいかない。この投資が成功するか否かは、ランダムな(自己以外の)要素によって左右される。100パーセント「安全」で「絶対的確実」な投資は、あり得ないのである。
 そこでこの人は、自らが判断しなければならない。
 そして、そこで起こった結果による損失は、必ず自らが負わなければならない(もちろん、その逆もしかり)。
 自己責任である。

 もし、この人間が、投資に失敗して(あ、言っておきますが、投資といっても、株式投資や金融投資のことだけを言っているわけではありません。通常の経済活動そのものを「投資」とここでは呼んでいます)投下した資本を失った場合、その責任は、常に、決断をした本人にあるのである。自己責任というのは、そういうことだ。

 この一連の過程をよく見てみると、資本主義社会というのは、まるっきり(私が大好きな)ギャンブルの世界そのものであることに気がつく。

 ギャンブルは、本来、以下のようなものである。

 1、何に賭けるのかという選択肢が与えられる(機会均等)
 2、その勝敗は常に自己以外の「運」「偶然」に左右される(ランダムな要素)
 3、結果の予測は不可能(100パーセント安全な投資はない)
 4、判断の基準は常に自己の直感と推論(投資するか否かの自己決断)
 5、結果は常に不平等。勝つものは栄え負けるものは失う(結果不平等)
 6、結果に対して他者に責任を求めない(自己責任)

 どうだろう?
 まるっきり、資本主義社会の「仕組み」そのものではないだろうか?

 さて、私はここで何を言いたいのか?

 ランダムな世の中の要素や偶然を、私たちは自分の都合どおりに選ぶことはできないが、自分が望む「偶然」…つまり、いわゆる「幸運」は、人為的に呼び込むことは可能である、ということである。誤解を招く言い方をしているが、それなら、こう言い換えてみよう。

 「ランダムな偶然に頼らない幸運と豊かさを私たちは自分で作り出すことができる」

 …はい、ここで問題です。

 世の中はランダムな偶然によって成り立っている集合体です(そんなことはない、と、思わないでくださいね。世界は常に、無数の偶然が積み重なって出来上がっているのですね。自己以外の存在が世界にある以上、これは、当然のはなしです)。そのランダムな偶然から、人為的に「幸運」を自らの元に呼び込むためには、どうすればいいのでしょう?

 別の問いかけ方をすれば、

 「人生に運を呼び込み豊かな結果を得るためには、何が必要だろうか?」

 ということになります。

 答えは…また、今度(笑)。

 でも、ヒントを差し上げましょう。考えてみてくださいね(笑)。

(ヒント)
 1、この世の中は努力が必ず報われるとは限らない。
 2、努力は必然。培った能力も必然。しかし、結果は偶然に左右される。
 3、「ツキ」というのは結果論でしかない。
 4、しかし、結果論である「ツキ」を得るには、それが自分にとって「ツキ」であると認識できる感性が必要。
 5、その感性を自分の中に作り出すためには…?
 6、さらに、結果論である「ツキ」と数多く出会うためには、どうすればいい…?

 はい。ほとんど答えを言っているようなものですね。

 ちなみに(これは自画自賛的な宣伝ぽくなりますが)イメトレ・ドリルを真面目に毎日トレーニングしている方(した方)は、気づかない間にこの体質を自然に作っているはずです(笑)。だって、そのために作ったプログラムなんだもん。あとは、自分が向き合う現実の実情に合わせた実践的な応用力の問題(トレーニングの応用ではなく、現実生活での実際的な応用のことね)。

 さあ、シンキングタイム(笑)。
 
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by takaichiarata | 2004-12-17 02:19 | イメージトレーニング

オスカーとルシンダ

 いまスカパー(スカイパーフェクト・テレビジョンのことね)でオスカーとルシンダという映画を観ていた。1999年制作(イギリス、オーストラリア合作)の「文芸大作映画」である。

 18世紀。
 「嵐が丘」の舞台を彷佛とさせる、荒涼としたイングランド北部に広がる荒野の村で、「兄弟団」というキリスト教の一派の司祭の息子に生まれたオスカー。
 オーストラリアで開墾した広大な農地を所有する恵まれた移民の娘として、自然児さながらに伸び伸びと育つルシンダ。
 この、生まれも育ちも全く異なる2人の男女が、ある共通の嗜好を接点にして、互いの人生をからませていく物語である。

 こう書くと、何だか壮大な歴史ロマン的メロドラマみたいだが、そこは、イギリス映画。何と言うか、いたるところにウィットとユーモアが散りばめられていて、クスリと微苦笑を浮かべながら、主人公2人の行動に見入ってしまうのだ。

 例えば、こんなシーン。

 オスカーは、神の教えを多くの人に伝えることを信念とする厳格で原理主義的な父親に育てられ、その教えを忠実に守りながら毎日を過ごすのだが、あるクリスマス、お手伝いさんが作ってくれたクリスマス・プディングを(父親に内緒で)食べようとしたところ(何しろ父親は、「クリスマスとは何か?キリストのミサの意味である。浮かれて祝う日ではない。異端の悪魔の教義を信じるな」と宣うお方なのである)、父親に見つかり、「悪魔の食べ物に手を出すとは何事か!」と、きつく叱責される。そして、オスカーは、「悪魔の食べ物は美味しかった」と思い、家出するのである。で、家出した先は、「英国国教会」の教会(笑)。

 あるいは、こんなシーン。

 青年になったオスカーは、牧師になるため、ケンブリッジ大学で学んでいるのだが、金がなく授業料を払うのに苦慮して寮の自室で神に祈っていた。「どうかお金を私にください」と。その時、たまたま部屋を間違えた学生がやってきて、オスカーを競馬に誘う。オスカーは、これを神の導きだと信じ、嬉々として競馬場に行き、見事に勝つ。これをきっかけに、オスカーはギャンブルにはまる。そして、信仰と博打を両立させるための方便として、こんなことを言うのである。
 「人生は賭けである。神は、人間に、神に人生を賭けよとおっしゃっている。神も賭けを認めているのだ」
 力強く宣言するのではなく、実に淡々と、いかにも人生の真理を語るように、自分のギャンブル狂いを正当化した言葉を呟く姿に、微笑をさそってしまう。

 とにかく、真面目で誠実だけど、どこかちょっとピントのずれている気の弱いオスカーと、活発でチャーミングで、おおらかなルシンダの、この2人の主人公が、とても魅力的な映画であった。

 一種の大河ドラマなんだけど、微笑みとせつなさとしんみりさが同居する、面白い映画であった。こんな素敵な映画、いままで知らなかったなあ。私もこういう、ウィットと蘊蓄に富んだものを作りたい(書きたい)ものである。

 さ、原稿書きに戻ろう(^^;)。
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by takaichiarata | 2004-12-15 05:21 | エンターテインメント
 イメトレ話をするっていっておきながら、ちっとも記事を書かない。いや、原稿書きにかこつけて、なかなか書こうとしない。困ったものである。
 なので、ここに、イメトレ話の代わり、といっちゃなんだけど、現在書いている本の原稿の一節を、ごく一部抜粋しておこうと思う。どこの出版社かは、出てからのお楽しみに(^^;)。まあ、これも実際には、校正の段階で文章に手を加えようと思っているけど、内容は変わらないので、ひとつのイメトレ話として、読んでください。

 
人は、何か新しいことをはじめようとするとき、
 「いま現在が楽しくて幸福だから、もっと別のことにもチャレンジしてみよう」
 という考え方をする人と、
 「いま現在が辛くて苦しいから、別のことをやってその辛さと苦しみから逃れたい」
 という考え方をする人の2種類に別れる。大雑把に分けてしまえばね。
 キミの父は、どちらの考え方の持ち主かと言えば、それは、前者である。
 どちらの考え方も、いまを変えるために何か新しいアクションを起こす、ということには(現象としては)変わりはない。だが、それぞれの思想の底にあるものが、現実に現れて来る時、そこで大きな違いが起こってくるのだ。
 「いまが苦しいから新しい何かに取り組みたい」
 という考え方の底には、
 「人生の幸福はどこか別の場所に存在し、それを探すことで人は豊かに幸せになれる」
 という信念が横たわっている。
 だが、私の経験から言わせてもらえれば、人生に必要な豊かさや幸福や成功は、自分以外のどこの場所にも存在しないものなのだよ。
 人の幸福は、結局は、自分自身にあるのだ。
 抽象的すぎるかな?
 例えばね、私は、いつだって生きていることそのものが楽しいのだが、毎日の生活の中で、どんな出来事やどんな現象が起こったとしても、それが、客観的に辛く苦しみに満ちたものに見えたとしても、私はそれでもこうやって生きている、息をしている、世界の営みの中に参加している…こう思うことで、
 「ああ、私は幸せな存在だ。毎日がいろんなことに満ちて、楽しくて仕方ない」
 と、心の底から考えてしまうのだ。
 どんなことだってそうなのだが、私は、仕事でも遊びでも、何か新しいことを始めようとするとき、
 「いまが楽しいからさらにあれもやってみよう」
 という考え方をすることで、どんどんいろんなものを手に入れることができた。そうすると、新しく手に入ったものから、また新しい何かが生み出され、ますます私は喜びと幸福に溢れてくる。その結果、私は、私が望む繁栄と成功を手に入れることができたのだと、思う。
 私は生きていることが楽しくてしょうがないのだ。画期的な玩具を考えついたりとか、お金を沢山稼いだりとか、あるいは、他人よりも上等な服を着たりとか、豪華な食事にありつけたりとか、そんなことで楽しいわけじゃない。ただ、呼吸をしていまを生きているのが楽しいだけなのだ。なにもしなくたって、楽しくて楽しくて仕方ないのに、ここからまた別の、私も知らない新しいステップに踏み出せる…そう考えていくと、私は、心と身体が沸き立つような幸福で包まれてしまうのである。そんな幸福感で新しい経験にチャレンジしていく人間に、失敗なんてあるわけがない。そう思わないかい?


 出版前に、しかも、まだ脱稿もしてないのに、こうやって書いている途中の原稿を紹介してしまうなんて、私ってサービス精神たっぷりな人間じゃん!(←バカ)

 取りあえず、続きを読みたくなるでしょ?(笑)
 続きは、本を買って読んでみてください。

 毎日が楽しくて楽しくて仕方のない状態は、イメトレを続けていくと、自然にそうなっていく。この心の状態が、幸運と幸福と成功なり繁栄を人生に呼び込む磁力となるのであるね。
 
 そういえば、イメトレ・ドリルの受講生の何人かの方からも、
 「イメトレが習慣になるにつれ、毎日がワケもなく楽しくなってきた」
 という感想をいただいている。
 この内的なヨロコビの状態が、実は、現実生活に幸運を呼び込むのです。はい。

 
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by takaichiarata | 2004-12-06 20:00 | イメージトレーニング
 すでに亡くなっている人間から手紙が届いたら、どんな気分になるだろうか?
 しかも、40年という長い時間をかけて、手元に届いたとしたら。

 そんなおはなしがあるのである。
 いや、もちろん、これは私の創作なんだけどね。

 「父から届いた40年目の手紙」

 そういう設定でいま、某社から出す「イメトレ本」を書いている。
 そんな設定を作らなくたって、ストレートに「イメトレだけを語った本」を書けばいいじゃないか、という意見もなきにしにもあらずだが、私は、(ここでも)何度も言っているように、テーマだけしか書いてない本は嫌いなのである。テーマを包み込むような、作者の世界観が現れるような、まあ、もっとはっきり言ってしまえば、エンターテインメントの中に、学ぶべき価値がある要素のつまったモノが好きなのである。私の書くものは、常にそういうものにしたいと考えている。但し、それが成功しているのかどうかは、別のおはなしだからね(^^;)。

 で、そういうことを考えながら、いろんな設定(物語)を日々考えているのだが、今回書いているものは、どちらかというと、ストレートにテーマが読んでいる人の心に届くようなものになっているかもしれない。

 でも、私がここで書きたいのは、「40年前に書かれた父親の手紙」という、一種ロマンティックな(笑)シチュエーションを使って語られる、ひとつの「奇跡」についてなのである。
 それがどんな「奇跡」なのかは、本が出てからのお楽しみ(^^)。まだ、ネタばらしはしません。

 つい先ほども、お伺いの(というか催促の)電話が某出版社からありまして、私はエイヤエイヤと唸りつつ、キーボードを叩きまくるのでした。

 いやいや、それにしても、今年中に、3社の原稿を完成させられるのかしら?
 同時平行して書いている別の出版社のものは、「成功者10人から聞いた成功の秘密の秘訣的イメトレ本」(大仕掛けアリ^^)、また、別の出版社のものは、「1978年にタイムマシーンに乗って行こう!」的、青春グラフィティ式イメトレ本で、全く毛色の異なったテイストの違う3つの原稿を書いていて、これだけ違う世界のものを毎日同時に考えていると、まるで、自分が多重人格の人間になったような気分で、なかなか大変なのである。
 来年はじめに締め切りのある、また違う社の原稿がいくつかあるけど、とりあえずいまは、現実問題として目の前にある仕事に集中しなければいけないのである。

 今年もあと、1か月を切った。
 ま、こんなことになったのも、私が計画的に原稿を書かなかったせいなのだから、仕方ないんだけどね。

 原稿の執筆は計画的に…てなところかな。
 来年こそは、必ず!(でも、今年もこういう目標を立てたんだけどね。いやはや)
 
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by takaichiarata | 2004-12-01 19:42 | 出版