イメトレ、自己啓発、エンターテインメントからギャンブルまで。


by takaichiarata
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 ずっと、アテネオリンピックにかまけていた。そのおかげで、エライことになっている。仕事である。

 オリンピック期間中、新しい執筆依頼が1件、とっとと原稿書かんかい電話(&メール)が2社5件、いい加減書いてもらわなくては困ります的泣き落し電話が1件、某東証1部上場企業で幹部社員にセミナーを開いてもらえんジャロカ要請が1件、企画をさっさと提出せんかいボケ!という脅しメールが1件、その他モロモロの仕事が…という具合に、仕事(の催促と依頼)が溜まりまくっていったのであった。

 うむむ。ひょっとしたら、オリンピックは、私にとって天敵なのかもしれない。

 しかし、アテネオリンピックも、もう終わりである。ヨロコバシイことだ。4年後の北京オリンピックまで、心安らかに仕事に没頭できる…と、思ったのだが、よく考えてみると、2年後にはサッカーワールドカップがあるし、冬期オリンピックもある。

 まあ、とりあえず、あと2年間は、仕事に没頭することにしよう…したいな…できたらいいな…できるかな?
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by takaichiarata | 2004-08-29 23:32
 このブログでしつこく告知している(^^;)、私が約9か月ぶりに出す著書(つまり、今年最初の著書ってことね)「幸運な人生を送る イタリア賢者の教え」の本(10冊)が、今日、届いた。あんなにギリギリノギリだったのに、青春出版社の編集カワタは、きっちりと間に合わせたのである。プロだねえ。

 
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    本と原稿を書いた愛用のパワーブック(携帯写真)

 読んでみた。
 うむ。面白いぞ、これは。
 いや、こうやって本の形になったのを読むと、私の場合は、自動的に読者モードになるのである。で、一読者として読み通してみたのだが、この本、本当に面白い。一体誰が書いたのであるのか?(笑)

 まあね。私は、自分が書いたものを、いつでも自画自賛するのであるが、正直言って、面白さはいままで書いた本の中ではNO1ですね(9月10日発売のPHPの本が出たら、またそれがNO1になるんだろうけどね^^;)。

 冗談抜きで、青春出版社内でも評判がいいという連絡が、編集カワタから入った。見本の本を読んで、「面白かったから1冊くれ」と、編集カワタの元に他の部署の社員がやって来て、強引にプレス用に用意している本を持っていったそうだ。

 買わんかい、ボケ!

 と、言いたいところではあるが(笑)、まあ、評判が良いのはなによりである。
 あと、未だに画面の出来ていないAmazonであるが、何故か、すでにAmazonから●●●冊(数字を書いていいものかどうか迷ったので伏せ字にします。3桁です)の事前注文が入ったそうだ。これだけの冊数が事前に予約されるのは、滅多にないそうだ。Amazonではこの本が売れると踏んでいる…らしい。

 うーむ。それだけの注文をするのなら、とっとと画面を作らんかい!

 と、悪態をつきたいところだが(笑)、注文をするのはバイヤーで、画面を作るのは別の部署なのだろうから、悪態をついても仕方ない。はやく画面ができないかと、ただ待つのみである。

 もうすぐ、発売。読んでくださったみなさんの感想が、とても楽しみである。

 …と、今日も宣伝だなあ、これは。
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by takaichiarata | 2004-08-27 23:53 | 出版

真面目な自己啓発的発言

 先日の私の記事に関して、フラワーさんからこういう質問がコメント欄にあった。

「目の前で起こっていることを判断しない」
絶望に見える状況も希望は隠されているってことでしょうか?


 この件に関して、少しばかり詳しく、私の考えを述べておこうと思う。フラワーさん、この記事を回答の代わりとさせてください。


 まず、「目の前で起こっていることを判断しない」という意味について考えてみよう。
 一言で言ってしまうと、これは、「物事に対する主観的な判断はしない」ということを意味しているのだが、これは、こう言い換えてもいいだろう。

目の前に起こっている事実をありのまま受け入れる


 そんなのあたりまえじゃん、何をいまさら…と、思われた方もいると思うが、実は人間というのは、なかなかそうはできないものなのだ。
 えー、何か具体的な例を出そうと思ったけど、こんな文章があるので、それを紹介してみよう。ここに書かれていることで、「物事に対する主観的な判断はしない」→「目の前に起こっている事実をありのまま受け入れる」ということの意味が、よく分かるだろうと思う。
 

…「主観的な感情を想像しない…どういう意味ですか?」
「さっきもおはなししたと思うけど、現実と現実を受け止める自分の心の揺れ動きは、全く別のもの、という意味よ。つまり、どのような現象であれ、目の前に現れる出来事は、単なる客観的な現象でしかないのにも関わらず、人間は、それを自分の心の中で、勝手に推測したり、想像したりして、感情という主観を付け加えてしまう。そして、その付け加えられた感情というものは、極めて主観的なものであって、それは、自分自身が培って来た固定観念、つまり、生きる習慣によって決定されていく。だから、感情には、客観的な要素がないわけよ。言い方を変えると、全ての人が、同じ出来事に対して、同じ感情を持つことはあり得ない、ということ。例えばさ、キミが、仕事で嫌なお客さんの用事を言い付けられたとするわよね」
「ええ、そういうこと、よくあります」
「でもそれは、客観的に見れば、つまり、現実は、ひとりのお客さんから用事を頼まれた、ということでしかないわけでしょ」
「…はい、そうですね」
「だけど、キミは、そこに『嫌な』という感情を付加してしまう。それは、たぶん、そのお客さんがいままで散々キミに対して、横柄な態度を取ったり、無茶な要求を何度も突き付けて来たことを繰り返して来た結果、
 その客=嫌な客
 という、図式がキミの頭の中に自動的に出来上がり、そのお客さんに用事を頼まれた時、
 その客に用事を頼まれた=嫌な客に嫌な用事を頼まれた
 と、キミの心は無条件に反応してしまったことによる結果なわけなのよね。
 単純に『お使いを頼まれた』という事実が一人歩きして、『嫌な客』+『嫌な用事』という具合に、キミ自身が頭の中で勝手に作り上げた感情によって、キミの気持ちや行動を否定的な方向に向けてしまう、ということね。分かるかな?」
「なるほど。確かにそんな気がします」
「だけど、よく考えてみて欲しいのだけれど、キミが嫌な客だと思っているお客さんは、別の人にとってみれば、決して嫌なお客ではなく、とても愛想が良くて好感の持てる客である場合もあるわけよね。
 その感じ方、つまり、主観の違いはどこから来るのかと言うと、ただ一つ。過去の経験から作られてしまった、自分自身の固定観念から来るの。
 ということは、事実、というか、目の前に起こっている現象というのは、結局は自分自身の感情のフィルターを通してしか体験することが出来ないのだから、自分の固定観念を壊すためには、まず、その現象そのものに、何の感情も加えず、ただ集中して観察し、それを体験してみることが、大事になってくるのよ」…【「あなたのまわりでいいことが起こるイメージトレーニング」タカイチアラタ著/PHP刊※9月10日発売です。よろしく(^^;)/より引用(笑)】


 いかがでしょう。とても分かりやすい説明ですね(笑)。

 まあ、つまり、「目の前で起こっていることを判断しない」ということは、人間と言うのは、その人間が培った過去からの経験や言動の積み重ねで作り上げられた精神的な視野と固定観念からしか、物事を評価できないので、常に偏った主観を持ってしまう。だから、意識的に判断(批判能力=自我1)を停止することで、その出来事の本質を感じてみよう(=自我2を働かせる)、ということなのである。

 先日の記事に書いた女子柔道の阿武選手のエピソードは、「自分の負けを受け入れられず、その結果、負けた事実そのものから目をそらそうとしたことで、視野が狭まり、現実が悪循環に陥った。しかし、一旦、負けたという現実を受け入れ、過去を認めたことで、精神的な視野が広がり、それが心に良い影響を与え、課題だった、精神的な強さを持つことができ、それがオリンピックの場で結実した」ということを現している。

 え? 言っていることが、逆じゃん。阿武選手は「負けたという現実を受け入れた」のだから、目の前に起こったことを判断していることになるじゃん…と、これを読んでいるあなた、いま、思いましたね?

 そんなことはないのである。

 「負けたという現実を受け入れた」ということは、客観的な(過去の)出来事を何の評価もせずありのまま認めたことであり、それは、感情の伴った判断(阿武選手の場合は、「世界一の技術と強さがありながら、オリンピックでは勝てないのはおかしい、認めたくない、思い出すのも気分が悪い…」という否定的な感情の働きによる判断)を、心の中で放棄した、ということになるのである。いや、放棄したというより、感情の伴った過去の出来事に対する評価を、それは事実として見ることが出来るようになった、と言った方が、たぶん正しい。

 どちらにせよ、阿武選手は、過去の敗戦を認めることで、はじめて、目の前に起こっていることを判断しなくなった、ということだ。

 ここまで説明すれば、フラワーさんが言う「絶望的な状況」ということに対する心の持ち方が分かるのではないだろうか?

 誰もが現実の中で「様々な状況」を経験する。しかし、そこには、「絶望的」な状況というものは、実は、存在しないのである。「絶望的」と感じるのは、単なる主観の問題でしかなく、いま現実に起こっていることに「絶望」を感じるのは、その人間の心のありようが否定的な方向に向いていることで起こる、「主観的な感情」でしかないわけだ。

 つまり、自分の心が何を求め、どこに向いているのか、というところから生じる「現実に対する判断」と「感情」によって、それが「絶望的」に感じたり、「希望」を感じたりするわけだ。

 言葉のレトリックのように感じるかもしれないが、人生を肯定的に作る、ということは、自分の心のありようの方向性をどの方向に向けるのか、というところで決定されていくものなのである。

 このブログのライフログで紹介している「夜と霧」の著者のV.E.フランクルの思想と言葉が、たぶん、ここでいま私が述べていることの正しい理解につながると思う。

 
「すべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです」
「むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです」
「根拠が何もないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深遠にさしかけられて宙吊りになっています。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の地平にいるのです」
「我々が人生とは何かを問うのではない。我々のほうが人生から問われているのである」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」より)

※V.E.フランクルは、第二次大戦中、ナチスによる強制収容所に家族揃って強制収容された。その中で妻と二人の子供を殺され、人間の極限の状態を体験したが、その中から「人生に対する肯定的な人生観」を確立し、戦後、それがフランクル心理学として結実した。


 私は、こう思う。

 どのように「絶望的な状況」を現実の中で感じていたとしても、それは、個人的感情というフィルターから現実を見たことによる、単なる主観的な固定観念でしかない、のだと。

 人生を望む通りに生きようと願い、それを現実に望むのであれば、どのような結果が起ころうと、とにかく、言葉だけではなく、現実的な行動が必要なのだ。その目的に向かった行動と未来への肯定的な希望がある限り、現実の中で困難にぶつかったとしても、必ずそれは打開できるだろうし、そのための心のありようを作ることができるものである。


 さて、フラワーさん。あなたに対する個人的な回答を書きます。
 人が人生に何かを求めるのなら、その目的を実現させる能力はもちろんのこと、決してあきらめない行動力が必要になります。例え現実がどんなに困難に見えて「絶望」を感じたとしても、それは、あなたの心の主観でしかない、ということを、よく知っておいてください。
 希望は、あなたの中にあります。そして、希望をどんな時でも持ち続けているのなら、それは、現実の中で、あなたにとって最適な形で、形作られるでしょう。
 そのためには、「目の前にあることを判断しない」という心の訓練が必要になります。ありのままにものごとを見る。それを自分で受け入れる。この繰り返しが、人生を肯定的にしていくものなのです。
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by takaichiarata | 2004-08-25 02:39 | 自己啓発

イメトレ・ドリル

 ごめんなさい(^^;)
 今回の記事は、宣伝です。

 えー、今回、新しい企画をはじめました。それは、【イメトレ・ドリル】というもので、毎日1通、イメトレのドリル、というべきイメトレエクササイズのメールを、タカイチアラタから受け取る、というものです。

 イメージを上手く作れない方、イメトレを実践していてもいまひとつ実感が持てない方、固定観念が強くてイメージの飛躍が出来ない方、イメトレ初心者、肯定的な自己イメージがなかなか持てない方、もっと右脳的なイメージ力を作りたい方…などは、きっと大きな効果が実感できるでしょう(まあ、イメトレに興味のある人は誰でもお薦めなんだけど^^;)。

 詳しくは、こちらをごらんください。

 1日1メール イメトレ・ドリル

 宣伝だけの記事で、失礼しましたm(__)m

 次回は、もっと真面目に。
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by takaichiarata | 2004-08-23 03:31
 オリンピックにかこつけて、ちょっとばかりイメトレ話をしてみよう。

 女子柔道78K級で、阿武教子選手が、3度目のオリンピックで金メダルを獲得した。それを速報する今日(じゃなくて、日付けが変わってしまったので、昨日、ね)の新聞で、興味深い記事を読んだ。まずは、それを紹介してみる。

…過去2度の五輪は過剰な期待に押しつぶされた。(中略)…日本女子の吉村監督から「世界王者なんだから自分ではい上がれ」と突き放され、知人の前でボロボロ涙を流したこともある。引退も考えた。だが、(中略)…少しずつ自信を取り戻した。今年の選抜体重別Vで五輪代表を決めた後は「五輪で2回とも初戦負けは、なかなかできない経験」と笑い飛ばせるまでになり、これまで1度も見なかったアトランタ、シドニー大会のビデオも取り寄せた。2つの敗戦を受け入れて今大会に臨んだ。(日刊スポーツ 2004/8/20 より引用


…今年七月、シドニー五輪の試合のビデオを初めて見た。実は今春、子どもの柔道教室で「なぜ負けたのかを受け止めて次に進んでほしい」と指導した。その言葉が意外にも自分に突き刺さった。消し去りたい記憶だったが、見終わった後は「やっと人生の一ページだと思える。過去を認めることで強くなりたい」と口にできた。(東京新聞 2004/8/20 朝刊より引用


 阿武教子選手といえば、2年に1度開かれる世界選手権で4連覇中で、選抜体重別に至っては、93年から、なんと、12年連続優勝しているのである。
 しかし、アトランタとシドニーオリンピックでは、両方とも1回戦で負けている。実力は、誰もが世界一と認めているにも関わらず、オリンピックだけは、優勝どころか、1度も勝つことができなかった。

 その原因は、いわずもがなではあるが、精神的なもの以外にあり得ない。もちろん、阿武教子選手がそれを一番よく分かっていた。だが、それを解消するために、一生懸命練習に打ち込んでも、不安は消えない。

 その不安とプレッシャーに、阿武選手はどう立ち向かったのか?

 日刊スポーツも東京新聞も、同じ意味のことを書いているのであるが、阿武選手は、2つの敗戦を受け入れたことで、「なぜ負けたのかを受け止めて次に進んで」いけるようになり、それが精神的なプレッシャーをはねのけ、今回の金メダルにつながった、というのである。そして、こうも言っている。

 過去を認めることで強くなりたい

 どうだろう?
 この阿武選手の8年間の苦闘は、私たちに何かを訴えかけてはこないだろうか?

 私は、阿武選手の記事を読んだ時、なるほどなあ、と、思ったのであった。
 それは、「敗戦を受け入れる」「なぜ負けたのかを受け止める」「過去を認める」という阿武選手の内面のありようの変化が、イメトレそのものの考え方に非常に近い…いや、これって(私が考える)イメトレじゃんと感じたわけである。

 私は、著作や実践イメトレ講座の中で、人間の行動を最適な方向に向けるためには、自我2に気づき、それを自動的に肯定的な方向に動かすことで、現実における行動は、適切なものになっていく。その結果、その人間の現実と思考そのものが、肯定的に変化して、意味のある偶然の一致(シンクロニシティ)が時として生まれ、その積み重ねで、夢や願望が実現していく…まあ、大体こういうことを語っている。

 特に実践イメトレ講座の中では、自我2に気づき、それを働かせるためのコツを、いくつかのエクササイズを通して具体的に提示しているのであるが、その中に、こういうものがある。

1、確信を持って物事をあらかじめイメージする
2、現実に起こっていることを、よく見て、よく感じる
3、目の前で起こっていることを判断しない


 これは、講座受講生の方ならお馴染みの言葉であるが(笑)、要は、現実と過去をありのまま丸ごと認めて受け入れてしまうことで、現在の自分の立場と場所を意識的に自覚し、そこから新しい未来への可能性を自分の中に作る、ということを意味しているのである。まあ、それを具体的にどうやって見いだしトレーニングするのか、ということは、ここでは述べないが(^^;)、結局、阿武選手の体験は、自己イメージを高めるイメトレそのものになっていることに、とても興味を私は覚えてしまったのであった。

 オリンピックに出場し、上位を狙う選手の能力と実力は、たぶん、誰もが同じようなものだと思う。しかし、必ずそこで、勝者と敗者に別れてしまう。その違いは、技術でも能力でもなく、純粋に、心の内面の問題になってくることが、面白い。
 そしてそれは、私たちの人生そのものに、通じるものがあると、私は思うのであった。

 イメトレって、すごいじゃん…これが言いたかったのである(^^;)。

 うーむ。
 スポーツで人生論(や自己啓発めいたもの)を語るのは、(いい加減なオヤジのタワゴトな説教のように聞こえて)かなり恥ずかしいような気がするが、まあ、オリンピック特集として、大目に見てやってください。


 閑話休題。
 火魔人さんがイメトレ90日間体験を終えた。

 イメージトレーニングで夢うつつ: 調子が狂っちゃた。

 私の著作実践イメトレ講座、メルマガのバックナンバーや、いろいろな書籍・CDで、イメトレを90日間継続し、その日々の移り変わりをブログに記録していたのだが、当初の目標だった期間が、このたびめでたく終了したそうだ。

 お疲れさまでした。

 でも、ブログは是非つづけてほしいと、思う。何しろ、表現力と知性がとても光っている文章をお書きになる方なので、読んでいて楽しいのである。イメトレをしている自分の主観と客観を、過不足なく観察し、それを表現する能力というのは、本当にたいしたものだと、心から思う。
 イメトレが心に影響をあたえ、それが日々の生活に反応するさまを、これほど詳細に記録した文章を、私は読んだことがない。

 是非、これからも(不定期でも)、つづけてほしいものである。
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by takaichiarata | 2004-08-21 01:35 | イメージトレーニング
 昨日から今日にかけて、なかなかドタバタな一日であった。

 午前中、歯医者に行く。ここ2週間ほど、奥歯がしみて辛かったのである。
 診療用の椅子に座り、大きくアーンと口を開け、お馴染みの歯医者さん(以前通っていた歯科医院なので担当医ということになる)、私の口の中を覗き込んだ。
 「ああ、この歯ですね。これ、よく1年間も持ちましたよね」
 と、さりげなーく言うのであった。
 そして、
 「この歯ねえ、実は、いつ抜こうかと考えていたんですよね。ちょうど良かったね」
 とさりげなーく笑った。
 こうして、私の可哀相な奥歯は、さりげなーく抜かれてしまったのであった。

 私は、奥歯の抜けた後のスースー感を味わいながら、電車に乗る。午後、新宿で、ちょっとばかり大手の某出版社の編集氏と会うことになっているのだ。用件は、執筆依頼。私に新しい本を書かかせよう、ということである。
 その編集氏とは初対面なのだが、待ち合わせの喫茶店に行ってみると、すぐに分かった。出版社の人間の匂いがするのである。要は、長年本を作り続けてきた人間のオーラがそこはかとなく漂っている、ということだ。
 年の頃は、私と同年代か、その前後であろう。
 編集氏、初対面の挨拶を終えるなりガハハと笑ってこう言った。
 「タカイチセンセー、さっそくですが、仕事のおはなしからはじめましょう」
 いきなりかい。
 「とにかく、弊社からセンセーの本を出したい。書いていただきたい。やってもらいたい。嫌だと言っても執筆させたい」
 と、たい4段活用強制語法を駆使して、私に迫ってくるのである。
 たいはたいでも、魚の鯛ならさばけるのだが、たい4段活用強制語法は、さばくのにちょっと苦労をするので、困ってしまうのである。
 百戦強者の編集氏、私の困った顔を見て再びガハハと笑い、
 「とにかく、昨年のセンセーのご活躍には目を見張るものがあります。昨年を第1期タカイチアラタ時代の幕開けとしたら、弊社から出版した後は、第2期タカイチアラタ時代成熟期にしようではありませんか。ガハハ」
 第1期も第2期もない。
 私の時代は私が生きている限り私の人生の中で続くのである。
 いや、これはレトリックではない。
 私だけではなく、誰もが、生きている限り、その個人の歴史の中で、常に主人公となり、生きていこうという心持ちが必要だと思うのだ。それこそが、私がいつも言っている、自己イメージを高めることにつながるのである。

 まあ、とにかく2時間後、私はまた新しい仕事を抱え込んでしまい、ボーゼンと新宿の街をふらふらと歩いているのであった。
 
 夜は夜で、青春出版社の編集カワタから連絡があり、
 「いまからバイク便でゲラの最終稿をお届けしますから、すぐにチェックしていただいて、折り返してください!もう!本当に!ギリギリノギリ!なのです!明日印刷所に入稿できなかったら、今月末の発売は不可能になってしまうのです!頼みます!お願いします!」
 と、ビックリマークだらけの言葉を電話口でまくしたてるのであった。
 明日印刷所に入稿って、あんた…本当にそれで今月末に本を発売できるのか?
 私の頭の中はクエッションマークだらけであるのだが、こんなにギリギリノギリになったのは、私が最初のゲラチェックの段階で、「プロローグ」「なかがき」「エピローグ」を全面改稿し、全体の構成を変えてしまったことにも原因があるに違いないわけで、私はおとなしく編集カワタから届けられるゲラを待つのであった。

 55分後。東京都新宿区若松町にある青春出版社から、都下の我が家にバイク便のお兄ちゃんがやって来て、
 「はい、これです。お渡ししましたよ」
 と、ゲラ最終稿の入った大判の封筒を私に渡すのであった。
 私は、封筒を開け、本の体裁どおりにレイアウトされたゲラをチェックする。
 読み進めていくうちに、どうしても変えたい文章や、内容が出て来るのだが、もう本当にこれ以上大幅な変更をしてしまったら、今月末の発売に冗談抜きで間に合わない…とは思うが、変えた方が絶対良くなるはずだから、私はいくつかの変更と修正をしてしまったのでした(笑)。

 そして、翌朝(今朝のことね)。
 編集カワタに電話すると、編集カワタ、印刷所で待機していた。私がいくつかの変更と修正があると言うと、
 「分かりました。では、いまここで修正しますので、電話で申し送りしてください!」
 と、ヤケクソの声で開き直るのであった。
 15分後、電話での申し送りが終わり、編集カワタ、
 「では、いまからすぐに修正して、入稿します!また後ほど、ご連絡いたします!」
 と、そそくさと電話を切った。

 数時間後。
 編集カワタからメールが届いた。
 『無事、印刷所に納品しました。26日に見本が出ます。発売は、予定どおりです。今月の31日に間に合いました』

 うーむ。執念である。編集カワタに拍手をしよう。ぱちぱちぱち。

 そんなわけで、無事、予定どおり、イタリア賢者の教えは、今月末に発売されることになった次第です。めでたしめでたし。
 もうすぐ、Amazonでも予約できるはずなので、みなさん、是非、予約しちゃってください。面白さと内容の充実さに、自信アリです。いままで誰も読んだことのな本で、驚くかもね。

 そうそう。
 パソコンの中を整理していたら、こんな写真が出て来た。
 
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 4年前に撮った私のオーラ写真です(^^)。
 まるで、心霊写真だね、こりゃ。
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by takaichiarata | 2004-08-19 23:48 | コラム
 小野伸二のキャプテンシーは素晴らしかった。さすがに、オランダのフェイエノールトオでゲームキャプテンを任されているだけある。

チームマネジャーのヤン・ズワルトは、「監督のフリットは、今季どのようなチームで戦っているのか知る権利を持っている。その中で小野は重要な位置を占めている。そのステータスで言えば、もっとも重要な選手と言えるだろう。それは今後も変わらない」と語った。(フェイエノールト公式HPより)


 あいまいな審判の判定に対して、きっちりと(たぶん英語で)抗議し、なおかつイエローカードを出されても、堂々と主張する姿は、そのプレー以上に若い選手たちのお手本になったはずだ。
 残念ながら日本はイタリアに惜敗したし、決勝トーナメント進出はならなかったけど、個人的にはとても楽しめた試合だった。惜しむらくは、先日のパラグアイ戦で、最初から小野伸二にキャプテンを任せていたらと、多少の無念の気持ちで考えてしまう。

 世界基準。
 イタリアのサッカー、パラグアイのサッカー。日本が負けたどちらのサッカーも、その質と内容は違っていても、世界で戦うということはこういうことだ、という点においては、同じ匂いがした。
 それは、徹底すること。
 守るときも攻めるときも、全員が同じ意識でボールに向かう。ボールの方向に集中する。イタリアもパラグアイも、この意識の統一が充分なされていた。たぶん、日本のサッカーには、この徹底さが足りないのかもしれない。安易な個人の希望的判断で、プレーの内容を変更してしまう。そこを突かれて失点する。今回も前回も、全く同じ状況で、点を入れられてしまっていた。

 技術は同等でも、意識の差で結果が異なる、というわけである。

 まあ、これは、サッカーだけじゃないんだけどね。何事も、かくのごとし、ってなところでしょうか。

 いやいや。スポーツにかこつけて、イヤミな人生論をぶっている場合じゃない。あと1試合しかできなくなってしまったけど、最後の試合、思いきり力を出し切ってほしいものである。勝敗は別にして(そりゃ、勝つ方が嬉しいが)最大限の力をピッチ上で発揮してくれれば、オリンピックフェチでサッカー大好き中年である私は、とても満足である。

 ああ、そういえば、私は小野伸二のサインを持っていた。オランダのフェイエノールトの練習場で、練習を終えた小野伸二選手に、サインを貰ったのである。いえ、私ではなく、オランダ在住の知人がね(^^)。で、それを送ってもらったのであった。

 今日のような試合を見ていたら、私もサッカーをしたくなった。いや、フットサルがいいな。選手35歳以上限定のフットサルチームでも作ろうかしら?もちろん、チアリーダー付きで(^^;)。

 まだまだ、オリンピックはつづくのである。眠れない日々もつづくのである。忙しいことである。

 次回は、…怪談話か、イメトレ話のどちらかを書く予定です。まあ、その時の気分で。
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by takaichiarata | 2004-08-16 06:27 | コラム
 パチスロで大勝ちした。

 昨日から、原稿執筆部屋に籠っている。明け方まで(オリンピックをテレビで観ながら^^)原稿を書いていて、10時まで仮眠を取る。私は寝起きがあまり良くないので、タバコを吸いながらぼーっとしていると、青春出版社から送られて来た封筒が目に入った。その中には、今月末発売するイタリア賢者の教えに関する出版契約書が2通入っている。
 私は、封筒から契約書を取り出し、目を通してみた。どこの出版社も、基本的には、同じことが書いてある。私がサインをして、1通を青春出版社に送り返せば、契約成立、というわけだ。
 もし、と、私は思った。この契約書の内容が気に入らないから、やっぱり出版はやーめた、なんて言ったら、どうなるのだろう?今月末の出版は取りやめになるのだろうか?そうなったら、編集のカワタくんは、どうするんだろうな。泣くかな?…なんて、くだらないことを考えていたら、何だかおかしくなって、ひとりでクスクス笑ってしまった。

 ひとりで笑っているのもなんだかムナシイものがあるので、私は、どっこいしょと身支度をし、愛用のマウンテンバイクにまたがり、食事に出ることにした。
 マウンテンバイクを走らせる。今日も暑い。
 信号で止まる。
 ふと、横を見ると、「パチンコ・パチスロ スーパーゴリラ」なる看板が目に入った。うーむ。わざとらしい展開である。そんな看板を目にして、素直に通り過ぎるほど、私はツマラナイ男ではない。売られたけんかは買う男である(別に、誰からも売られてないけど)。
 要は、ふらふらと、「パチンコ・パチスロ スーパーゴリラ」に入ってしまったというわけである。

※ここからは、パチスロを知っている人しか分からない描写がつづきます(^^;)

 お盆である。お客さんが多い。ということは、確実に店が勝つ営業をやっている、ということだ。どの台を打っても、客が勝てる台なんか、一台もないのである。全台設定1かもね。
 こういうときは、何も考えず、最初に目に入った台に座るにかぎる。だから私は、北斗の拳なるパチスロ台に座った。
 1000円でコインを買う。
 スロットを打つ。
 ペシペシペシ。
 うん?…なんかへんだぞ。レバーを押した瞬間、何か違和感を感じる。スタート音がしなかったような気がする。錯覚かな?
 リールに目をやる。
 驚いた。
 液晶画面に何の変化もないのに、リールにリーチ目が揃っていた。
 え、いつ当たったの?特定小役も引いてないのに…と、思ったけど、よく考えてみれば、直前に2枚チェリーを引いていたのだった。これで当たったのか。
 私は、シャレで黒い北斗絵柄を狙って揃えると…ははは、揃ってしまった。
 たった1000円で、なんと、32連チャンして、大爆発画面を出し、ラオウを天に帰してしまったのであった。

 結果、投資1000円でウン万円の儲け(正確にいくら勝ったのかは…教えてあげない^^)。実働わずか、1時間である。ついているときはこんなもんだ。
 私は、ほくほくとしながら、今度こそ食事を取り、シアワセな気持ちでまた原稿書きに戻ったのであった。

 それにしても、私は長年イメトレを実践してきたおかげで、それなりに直感力が強化されているのであるが(事実、私はカンがとても良い)、ことギャンブルに関しては、全く私の直感力は役に立たないのである。
 一時、直感で、勝てるパチスロ台を探し、パチスロで勝ちまくってウハウハしようと目論み、いろいろ試したのだが、どうも、結果は芳しくなかった。これは、パチスロに限ったことだけはない。ギャンブル全般に関して、私の直感力は、全く役に立たないのである。

 悔しいほど、本当に、役に立たない。
 どうやら私の直感力は、ギャンブルには効かないことになっているらしい。
 うむむ、である。私の野望は、一体どうなってしまうのか。
 何しろ、私は、立派な人間のクズになることを目指しているのである。そのためには、どうしても、ギャンブルは欠かせない。
 今日のように(いや、すでに昨日だな)ふと、思いついてパチスロをやると、1000円とか2000円で、簡単に大勝ちしたりする。これを繰り返せばいいようなものだが、意図して直感力を使おうと思うと、あっさり負けてしまう。
 まったく困ったものである。

 それにしても、ギャンブラーというのは、とてもスゴイ人種なのだ。彼らこそ、選ばれた人間たちである。誰に選ばれたのかしらないけど、とにかく、ギャンブルで生きている人は、選ばれちゃっているのだ。
 羨ましい。

 …なんて、くだらないことを書いていたら、アテネオリンピック、女子サッカー日本代表が負けてしまった。うーむ、残念。
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by takaichiarata | 2004-08-15 02:00 | エンターテインメント
 オリンピック、サッカー日本代表の第一試合が終わった。

パラグアイ4:3日本


 うーむ、惜しかったというべきか、よそ行きの試合だった前半、というべきか。小野伸二が2点取ったのは良かったけど(いずれもPKね)、日本の選手は、最初、地に足がついてなかった。パラグアイは、抜け目ない。きっちりと日本のミスを点にする。きっと、これが世界のサッカーなのだろう。これで目が覚めたかな?後半は良かったから、次につながるといいなあ。

 オリンピックといえば、1988年のロサンゼルスオリンピック
 この大会で、日本初の金メダルを取ったのが、ライフル射撃・ラピッドファイア一ピストルの蒲池猛夫さんなのだが、この蒲池猛夫さんの練習方法を、昔、文芸春秋社の雑誌 Numberで読んだことがある。
 当時の記事も、雑誌も保管してないので、記憶だけで語るが、蒲池猛夫さんは、一日のほとんどの時間を、イメージトレーニングの練習に費やした、ということを語っていた。

 この時、蒲池猛夫さんが行ったイメトレは、

1、射撃の的をイメージし、そこに的確に発射された弾が命中する様子
2、自分の射撃フォームが完璧にぶれない様子のイメージ
3、何かのリズムに合わせて、イメージの中で射撃する様子


 確か、このようなものだったはずだ。

 私はこの記事を読んだ時、「へえ、人間のイメージ力というのは大したものであるなあ」と、単純に感銘を受けた記憶がある。
 その頃、私はまだ、イメージトレーニングというものに対して、いまのようなはっきりとした考えを持っていなかったのだが、よく考えてみると、私がイメージトレーニングという心の技術に本格的に興味を持ったのは、この記事を読んだ後からだったような気もする。

 蒲池猛夫さんのイメトレ法は、実は、私たちに大きな示唆を与えてくれている。
 私は時々、何かの資格試験を受け、それに合格するためにはどのようなイメージを描くのが一番効果的か、という質問を受けることがある。
 その時、大抵の人は、
 「合格して嬉しい、というイメージを描けばいいのですか?」
 と、尋ねてくるのだが、私はこう答えている。
 「試験会場で自信を持って、最大限の実力を発揮している自分自身の姿を、常にイメージすることが大事」と。

 何故なら、現在勉強して貯えている実力を、試験会場で最大限に発揮できるようにすることこそ、(何かの)試験に合格するための最短の道であるからだ。

 以前の記事でもちょっと書いたが、何かを成し遂げたいのならそのための能力を身に付けることが大切という考え方を基礎にしてこそ、イメージトレーニングというものは、最大限の効果を得られるものであると、私は考えているからだ。

 例えば、大学に合格したい、でも、合格している自分をイメージし続け、そのイメージが潜在意識に貯えられれば、例え勉強が足りなくても、きっと合格するだろう…ということは、まず、あり得ないわけである。
 このような考え方は、潜在意識というものを魔法のような心の絶対法則と誤って解釈する時に起こる、怠け者の根拠のない希望、でしかないのだ。
 大学に合格したいのなら、そのための学力を身に付ける必要がある。そして、身に付けた学力を、試験当日に最大限に発揮できる、メンタル的な強さが必要になる。この前提条件があってはじめて、「大学に合格して嬉しい」という自分のイメージが、リアルなものになってくるのである。

 これは、試験についてだけ言っているのではない。

 例えば、金銭関係の願望にしろ、仕事の願望にしろ、人間関係の願望にしろ、最終的な自分の望む姿をイメージすることも大事だが、そこからフィードバックして、では、そのような自分になるためには、いま、何をすることが必要なのか、ということを考え、その考えを実行に移し、なおかつ、自分が最大限の力でそれを行っている状態を、心の底からイメージすることで、最終的な願望や夢は、私たちの目の前に形となって現れてくるのである。
 そして、時としてそれは、意味のある偶然の一致(シンクロニシティ)の形を取って、私たちの目の前にやってくるのだが、最初にシンクロニシティありき、ではないことを、知っておいてほしい。その願望を実現するための条件を整えた時に、シンクロシニティは、はじめて訪れるのである。

 改めて言うまでもないが、私が紹介しているイメトレというのは、このような自己の可能性を広げ、その結果、現実において、意味のある偶然の一致(シンクロニシティ)を呼び込むための、エクササイズである。つまり、イメトレを行うことで、現実の中で、自分の可能性に気がつき、同時に、自分が持っている夢や願望を実現できるだけの心の能力を高めることができる、ということだ。
 自分の望ましい未来の姿だけを思い描くことが、イメトレの全てではない。それは、イメトレのひとつの側面でしかない。もっと重要なことは、イメトレで個人の内面と向き合い、そこに肯定的な未来の種を植えることで、現実生活の中で、願望を叶えるための能力を作り上げることに、イメトレの真骨頂はあるのだ。

 私がこのような考え方を持ったそもそものきっかけは、蒲池猛夫さんのイメトレ射撃論からであった。いや、記事を読んだ当時は、それほど深く考えてはいなかったが、いま思い返してみると、どうやら私のイメトレに対する考え方の根底には、蒲池猛夫さんがあったような気がするのである。

 蒲池猛夫さんの、結果のイメージよりも、自己(の能力)を高めるイメージ。
 これは、まさしく、「自己イメージを高める」ことで、自然に物事はやってくる、という私の考え方そのものであることに、…ついさっき気がついた(笑)。

 オリンピックで思い出した、私の原点でした。

 次回は、お盆特集として(笑)、私の不思議体験を2題ほど、書いてみようと思います。
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by takaichiarata | 2004-08-13 06:28 | イメージトレーニング
 夏目漱石は、胃かいようの悪化に伴い、伊豆の修善寺で静養している時、大量の吐血をして一時危篤状態になったことがある。その時、心肺停止の状態で、漱石は医学的には死んでいたそうだ。しかし、脈が止まり、瞳孔が開いてから30分後、漱石は寝返りをうって、生き返った

 その30分間の死について、漱石は、後に文章にしている。いまそれが手元にないので、私の記憶で書くが、その時、漱石はどのような状態だったのか?

私は天井からぶら下がる電気灯(白熱電灯のこと)の光がゆらぐのを見ていた。突然闇が私の視界を遮り、次の瞬間寝返りをうって再び視界が開けた…(これは、漱石の文章の大意を私の記憶で書いています)


 蘇生を施していた医者たちや、家族は、漱石が息を吹き返すまで30分間ピクリとも動かず、死んだ状態になっていたのを確認しているのにも関わらず、漱石自身は、暗闇の次に寝返りという、一片の意識のタイムラグがない状態で、死から生まで連続していたと、認識していたのであった。

 後日、家人から30分間死んでいたというはなしを聞いた漱石は、非常に驚き、同時に、がっかりしたそうだ。何故なら、その30分間という時間は、漱石の中では存在していなかったからであり、漱石が期待していたような臨死体験めいた体験がなかったことに、恐ろしく腹を立てたらしい。

 その後、夏目漱石は、それからを執筆するのだが、この作品に、30分間の死を体験した漱石の死生観が現れている…というはなしは聞いたことがない(笑)。

 私は、漱石のこの体験談を読んで、遠い昔にした私の体験を思い出した。

 私は、いまでこそ関取だの、親方だのと言われるほど、体格も良く、極めつけの健康体なのだが、子供の頃の私ときたら、そりゃもう大変なほど病弱で、何しろ5歳の時までに2度も生死の境を彷徨う大手術を受けているのである。いまでも私の身体には、40年前の手術の痕が、大きく残されている。

 そのうちのひとつ、私が5歳の時に受けた手術は、かなりの大手術だったそうで、終わるまでに5時間かかったと聞いている。
 それは、大腸の一部を切除してバイパスを作る手術だった。
 その頃、私は、いつでも貧血状態で、下血を繰り返していて、便通もよくなく、大学病院に運ばれた時には、死の一歩手前だったそうだ。

 さて、その時の私の記憶である。

私は、病院の廊下をストレッチャーに横たわった状態で移動している。点滴を打たれている。病院の廊下の天井のシミを覚えている。覗き込む母親の顔を覚えている。看護婦さんたちのせわしない行動を覚えている。手術室の扉を覚えている。そこで、暗闇が来たことを覚えている。

私はどこかの原っぱにいた。そこには廃材や土管が乱雑に置かれている場所だった。私は後ろを振り返った。するとそこに、奴凧の奴さんがニヤニヤ笑いながら私を見ていた。私は恐くなって、走って逃げた。すると、奴さん、空を飛びながら私を追いかけて来た。私は廃材の影に隠れていたが、奴さん、どんどん近づいて来る。私は半べそをかきながらまた逃げた。すると、いつの間にかそこは野原になっていて、野原の向こうに、人物のシルエットが見えた。私はそこに近づいた。その人物は、2年前に死んだ父だった。父は、私を見ると、とても恐い顔をしてこう言った。
 「こっちへ来るな!はやく帰れ!」

次の瞬間、私は病室のベッドの上で目を覚ましていた。小児病棟の大部屋の一室だったことを覚えている。


 私はこのはなしを、もっと大きくなってから母親にしたことがある。すると、母親、ひとことこう言った。
 「手術の途中でお前は一度死んでいたんだよ」

 私のこの体験は、その後、私の生き方に…何の影響も与えていない(笑)。


 私にとって一番強い父の記憶は、この「夢」の中の父である。
 お盆も近いし、ふと、こんなおはなしをしてみたくなった。
 たまには先祖を偲びながら、自分がいま生きて、笑って泣いて、怒って喜んで、それでもまた生きていることに、感謝してみようと思う。

 さあ、いよいよオリンピックだ。楽しみ楽しみ(^^)
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by takaichiarata | 2004-08-12 17:51 | コラム