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イメトレ、自己啓発、エンターテインメントからギャンブルまで。


by takaichiarata
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真面目な自己啓発的発言

 先日の私の記事に関して、フラワーさんからこういう質問がコメント欄にあった。

「目の前で起こっていることを判断しない」
絶望に見える状況も希望は隠されているってことでしょうか?


 この件に関して、少しばかり詳しく、私の考えを述べておこうと思う。フラワーさん、この記事を回答の代わりとさせてください。


 まず、「目の前で起こっていることを判断しない」という意味について考えてみよう。
 一言で言ってしまうと、これは、「物事に対する主観的な判断はしない」ということを意味しているのだが、これは、こう言い換えてもいいだろう。

目の前に起こっている事実をありのまま受け入れる


 そんなのあたりまえじゃん、何をいまさら…と、思われた方もいると思うが、実は人間というのは、なかなかそうはできないものなのだ。
 えー、何か具体的な例を出そうと思ったけど、こんな文章があるので、それを紹介してみよう。ここに書かれていることで、「物事に対する主観的な判断はしない」→「目の前に起こっている事実をありのまま受け入れる」ということの意味が、よく分かるだろうと思う。
 

…「主観的な感情を想像しない…どういう意味ですか?」
「さっきもおはなししたと思うけど、現実と現実を受け止める自分の心の揺れ動きは、全く別のもの、という意味よ。つまり、どのような現象であれ、目の前に現れる出来事は、単なる客観的な現象でしかないのにも関わらず、人間は、それを自分の心の中で、勝手に推測したり、想像したりして、感情という主観を付け加えてしまう。そして、その付け加えられた感情というものは、極めて主観的なものであって、それは、自分自身が培って来た固定観念、つまり、生きる習慣によって決定されていく。だから、感情には、客観的な要素がないわけよ。言い方を変えると、全ての人が、同じ出来事に対して、同じ感情を持つことはあり得ない、ということ。例えばさ、キミが、仕事で嫌なお客さんの用事を言い付けられたとするわよね」
「ええ、そういうこと、よくあります」
「でもそれは、客観的に見れば、つまり、現実は、ひとりのお客さんから用事を頼まれた、ということでしかないわけでしょ」
「…はい、そうですね」
「だけど、キミは、そこに『嫌な』という感情を付加してしまう。それは、たぶん、そのお客さんがいままで散々キミに対して、横柄な態度を取ったり、無茶な要求を何度も突き付けて来たことを繰り返して来た結果、
 その客=嫌な客
 という、図式がキミの頭の中に自動的に出来上がり、そのお客さんに用事を頼まれた時、
 その客に用事を頼まれた=嫌な客に嫌な用事を頼まれた
 と、キミの心は無条件に反応してしまったことによる結果なわけなのよね。
 単純に『お使いを頼まれた』という事実が一人歩きして、『嫌な客』+『嫌な用事』という具合に、キミ自身が頭の中で勝手に作り上げた感情によって、キミの気持ちや行動を否定的な方向に向けてしまう、ということね。分かるかな?」
「なるほど。確かにそんな気がします」
「だけど、よく考えてみて欲しいのだけれど、キミが嫌な客だと思っているお客さんは、別の人にとってみれば、決して嫌なお客ではなく、とても愛想が良くて好感の持てる客である場合もあるわけよね。
 その感じ方、つまり、主観の違いはどこから来るのかと言うと、ただ一つ。過去の経験から作られてしまった、自分自身の固定観念から来るの。
 ということは、事実、というか、目の前に起こっている現象というのは、結局は自分自身の感情のフィルターを通してしか体験することが出来ないのだから、自分の固定観念を壊すためには、まず、その現象そのものに、何の感情も加えず、ただ集中して観察し、それを体験してみることが、大事になってくるのよ」…【「あなたのまわりでいいことが起こるイメージトレーニング」タカイチアラタ著/PHP刊※9月10日発売です。よろしく(^^;)/より引用(笑)】


 いかがでしょう。とても分かりやすい説明ですね(笑)。

 まあ、つまり、「目の前で起こっていることを判断しない」ということは、人間と言うのは、その人間が培った過去からの経験や言動の積み重ねで作り上げられた精神的な視野と固定観念からしか、物事を評価できないので、常に偏った主観を持ってしまう。だから、意識的に判断(批判能力=自我1)を停止することで、その出来事の本質を感じてみよう(=自我2を働かせる)、ということなのである。

 先日の記事に書いた女子柔道の阿武選手のエピソードは、「自分の負けを受け入れられず、その結果、負けた事実そのものから目をそらそうとしたことで、視野が狭まり、現実が悪循環に陥った。しかし、一旦、負けたという現実を受け入れ、過去を認めたことで、精神的な視野が広がり、それが心に良い影響を与え、課題だった、精神的な強さを持つことができ、それがオリンピックの場で結実した」ということを現している。

 え? 言っていることが、逆じゃん。阿武選手は「負けたという現実を受け入れた」のだから、目の前に起こったことを判断していることになるじゃん…と、これを読んでいるあなた、いま、思いましたね?

 そんなことはないのである。

 「負けたという現実を受け入れた」ということは、客観的な(過去の)出来事を何の評価もせずありのまま認めたことであり、それは、感情の伴った判断(阿武選手の場合は、「世界一の技術と強さがありながら、オリンピックでは勝てないのはおかしい、認めたくない、思い出すのも気分が悪い…」という否定的な感情の働きによる判断)を、心の中で放棄した、ということになるのである。いや、放棄したというより、感情の伴った過去の出来事に対する評価を、それは事実として見ることが出来るようになった、と言った方が、たぶん正しい。

 どちらにせよ、阿武選手は、過去の敗戦を認めることで、はじめて、目の前に起こっていることを判断しなくなった、ということだ。

 ここまで説明すれば、フラワーさんが言う「絶望的な状況」ということに対する心の持ち方が分かるのではないだろうか?

 誰もが現実の中で「様々な状況」を経験する。しかし、そこには、「絶望的」な状況というものは、実は、存在しないのである。「絶望的」と感じるのは、単なる主観の問題でしかなく、いま現実に起こっていることに「絶望」を感じるのは、その人間の心のありようが否定的な方向に向いていることで起こる、「主観的な感情」でしかないわけだ。

 つまり、自分の心が何を求め、どこに向いているのか、というところから生じる「現実に対する判断」と「感情」によって、それが「絶望的」に感じたり、「希望」を感じたりするわけだ。

 言葉のレトリックのように感じるかもしれないが、人生を肯定的に作る、ということは、自分の心のありようの方向性をどの方向に向けるのか、というところで決定されていくものなのである。

 このブログのライフログで紹介している「夜と霧」の著者のV.E.フランクルの思想と言葉が、たぶん、ここでいま私が述べていることの正しい理解につながると思う。

 
「すべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです」
「むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです」
「根拠が何もないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深遠にさしかけられて宙吊りになっています。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の地平にいるのです」
「我々が人生とは何かを問うのではない。我々のほうが人生から問われているのである」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」より)

※V.E.フランクルは、第二次大戦中、ナチスによる強制収容所に家族揃って強制収容された。その中で妻と二人の子供を殺され、人間の極限の状態を体験したが、その中から「人生に対する肯定的な人生観」を確立し、戦後、それがフランクル心理学として結実した。


 私は、こう思う。

 どのように「絶望的な状況」を現実の中で感じていたとしても、それは、個人的感情というフィルターから現実を見たことによる、単なる主観的な固定観念でしかない、のだと。

 人生を望む通りに生きようと願い、それを現実に望むのであれば、どのような結果が起ころうと、とにかく、言葉だけではなく、現実的な行動が必要なのだ。その目的に向かった行動と未来への肯定的な希望がある限り、現実の中で困難にぶつかったとしても、必ずそれは打開できるだろうし、そのための心のありようを作ることができるものである。


 さて、フラワーさん。あなたに対する個人的な回答を書きます。
 人が人生に何かを求めるのなら、その目的を実現させる能力はもちろんのこと、決してあきらめない行動力が必要になります。例え現実がどんなに困難に見えて「絶望」を感じたとしても、それは、あなたの心の主観でしかない、ということを、よく知っておいてください。
 希望は、あなたの中にあります。そして、希望をどんな時でも持ち続けているのなら、それは、現実の中で、あなたにとって最適な形で、形作られるでしょう。
 そのためには、「目の前にあることを判断しない」という心の訓練が必要になります。ありのままにものごとを見る。それを自分で受け入れる。この繰り返しが、人生を肯定的にしていくものなのです。
by takaichiarata | 2004-08-25 02:39 | 自己啓発